作文の部
人間教育=世界平和 海津市立城南中学校 1年 國司瑠莉
「わたしの夢は銃では撃てない。」
大きく見開いたその瞳は、おだやかではあるが、ゆるぎない信念に満ちあふれていた。
教育を受けられる権利をと、強く願い、訴え続ける少女。私と同世代のこの少女の行動力に私は心を動かされ、「教育」と「世界平和」の関係について考えさせられた。
少女の名は、マララ・ユスフザイ。マララは女子にも教育を受けられる権利を訴え、その言動や行動を封じ込めようとする武装勢力の一つであるタリバンに銃撃された。
考えてみよう。もし自分もマララのようにタリバンのような武装勢力に命を狙われる身になったら。考えるまでもなく私なら、例え信念を曲げることになっても、自分の命を最優先し、声をひそめ、安全な場所へ身を隠すだろう。
しかし、マララは違った。「世界の全ての子ども達に教育を」という大きな夢に向かって決して歩みを止めることはない。「殺害予告」である。尋常ではない。
いったい何が彼女をこれほどまでに強く導くのだろう。それはやはり、「教育」なのである。一命を取り止めたが、以前の可愛らしい顔に残った傷あとはあまりにも痛々しかった。
彼女の身を案ずる家族に、マララは「神さまが新しい人生をくださったのだ。」と前向きに答えたのだという。彼女の願いはただ一つ、 「声をあげておけばだれかがその声を広げてくれる」という希望の実現だ。
マララが愛と勇気ある信条を持つようになった印象的な言葉がある。 「自分の命より大きな信念を持てば、例え死んでもその声は広がっていく。」
マララだけではなく、彼女の家族全員が、このような高い理想を持ち、「世界の全ての子ども達に教育を」という夢に向かって歩み続けている。まさに、環境が人間を作るのだ。
現実に、子どもや女性が教育を受けられない国は、マララのいるパキスタンだけではない。かのイスラム国では、十歳以下の子ども達までもが戦とう員の一員だ。
言わば、「間違った教育」を受けさせられているのだ。右手に銃、左手にナイフを持ち、殺し合う。子ども達が何の疑問もなく、まるで殺人マシンのように従うしかない現実は、同じ人間として悲しいことだ。子ども達は教育を受けられないだけでなく、一切の娯楽も禁止されている。ある場所では、サッカーを見たという理由だけで子どもが十三人も殺されてしまった。
なぜ、理解不能な理由でいとも簡単に尊い命を奪うのか。なぜ、同じ地球でこんなひど過ぎることが次々と起こるのか。
人間は争い、傷つけ合い、ましてや殺し合いをするために生まれてきたのではない。
楽しいこと、苦しいこと、喜び、命が輝く多くのことを経験し、共に助け合うことを学びながらお互いに成長し続けるために生まれてきたのだと私は思う。
かけがえのない命、自分も自分以外のどんなに小さい命も尊いということ、命の重さは、皆一緒だということを世界中の一人一人に分かってほしいと願っている。
最近の日本はどうだろうか。平和についての意識が弱くなっているのではないだろうか。
日本国憲法、非核三原則を定めたのは、二度と戦争をしないため、人を傷つけてはいけないという戒めの証だったのではないのか。
今年も終戦記念日がやってきた。かつての大戦で未だかつてない原爆投下で多くの命が奪われた。
あの時代、日本だけでなく世界中が間違った方向に突き進んでいた。武力に頼らない方法を探し求め、平和への意識を持ち続けることが大切だ。
「人間教育=世界平和。」まずは、相手を思いやる心を持つことが平和な世界を築く第一歩になる。
一人の子ども、一人の教師、一冊の本、一本のペンが世界を変える。全ての人に平和と教育を。教育こそただ一つの解決策だと私も信じている。マララの願いは、我々人類に共通する永遠のテーマに通じる道であるのだ。