世界連邦運動の歴史
1. 古典的な世界政府論
例えば、14世紀初頭に有名な『神曲』を書いたイタリアの詩人ダンテは、その著『帝政論』の中で、唯一の君主による世界国家論を説き、また17世紀初頭フランス王アンリ4世は「アンリ4世の大計画」として知られる案を提案しましたが、これはヨーロッパのキリスト教国15カ国連合組織を作り、これによって、これら諸国の平和と安全を保持しようとするものでした。
そして、その後も、ヨーロッパでは、例えば、ウィリアム・ペンサムや、サン・ピエール、インマヌエル・カント、といった人びとによって、いろいろな世界国家案が出されましたが、その多くは思想家や哲学者などによるものであって実現の基盤を欠き、しかもその場、世界といっても、それは主として西ヨーロッパを意味していました。当時の彼らによってはヨーロッパが世界そのものだったのです。
一方、日本では小野梓(1852-1886)、植木枝盛(1857-1892)、中江兆民(1847-1901)、福沢諭吉(1834-1901)といった自由民権論者の思想に世界連邦の思想を汲み取ることができます。
2. 第二次世界大戦後の世界連邦運動
まず、それは第二次世界大戦後、特に原爆という人類が払った大きな犠牲を貴重な教訓としており、その運動の範囲も西ヨーロッパに限定されておらず、また、それは始めて単なる思想の域を超えて、一般民衆をも含めた一つの実践運動ともなったのです。
特に初期の段階で、この運動の発展に大きな影響を与えたものに、大戦末期(1945年6月)アメリカで出版された、
それではこの本がなぜ、それほどの影響を人びとに与え、世界連邦主義者のバイブルのようになったといえば、それは著者が経験的な歴史法則として、戦争の発生と戦争終了の法則を極めて明快に指摘し、この地球上から戦争をなくすためには、「分裂しあい闘争する民族主権を、一つの統一された、より高次の主権のもとに統合すること」であると述べたからです。
彼は次のように書いています。
「社会単位を形成する人間集団間の戦争は、これたの社会集団、つまり、部族、王朝、教会、都市、民族が無制限の主権を行使したとき常に発生する。これらの社会集団間の戦争は、主権的権力が彼らから、より大きな、より高次の単位に移されたときに終わる。しかし、それによってたとえ平和がもたらされても、新しい主権単位がさらに接触し始めると、また戦争が始める」。
『相対性理論』で有名なアルバート・アインシュタイン博士や日本で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士など世界的に著名な科学者たちは、核戦争による人類全滅を避けるために、他のいかなることにも優先して、国連の改革、強化による世界連邦の樹立を断行すべきだと力強く訴えました。
3. モントルー宣言と世界連邦憲法草案
各国の熱心な世界連邦主義者達は、1946年、ルクセンブルグに集まって、「世界連邦運動」(WFM)の前身である「世界政府のための世界運動」(WMWFG)を組織し、その第一回大会を、翌47年、スイスのモントルーで開きました。23カ国から51の団体代表が集まり、いわゆる「モントルー宣言」を発表し、世界連邦の6原則を明らかにしました。
・モントルー宣言(1947)世界連邦の6原則
2)世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する。
3)世界連邦法は「国家」に対してではなく、1人1人の「個人」を対象として適用される。
4)各国の軍備は全廃し、世界警察軍を設置する。
5)原子力は世界連邦政府のみが所有し、管理する。
6)世界連邦の経費は各国政府の供出ではなく、個人からの税金でまかなう。
運動の進め方としては、「国連を改革して世界連邦政府に発展させる方法」「世界人民の世論を喚起して人口比例の代表により世界憲法を起草するための人民会議を招集する方法」などを採択しました。
1945年8月、広島、長崎への原爆投下のニュースが世界を驚かせてまもなく、
この憲法草案は100万人に1人の人民代表によって世界議会を構成し、行政、司法の各部門を設け、世界法を制定し、世界大統領を選挙して、これを統治せしめるという47カ条からなる堂々たる憲法草案であります。